コラム

地震の間

所蔵:東京大学地震研究所

9月1日は「防災の日」、1923(大正12)年9月1日に発生し、10万人以上の死者・行方不明者を出した「関東大震災」に由来していますが、その地震、「忘れたころにやって来る」というコトバの通り、今も予知できるとはいえません。
突然やってくる地震の恐怖は今も昔も変わることなく、かつて地震は地下に住む大鯰があばれることでおこるという民間の言いつたえがあり、大鯰を描いた浮世絵の版画が地震への護符や守札として大いに売れたこともありました。
いつやってくるかわからない地震に対し、江戸時代、江戸城などにお殿様が地震の時、避難する「地震の間」が存在したのです。

現在たったひとつ現存するその「地震の間」が彦根城の下屋敷にあります。
彦根城は関ケ原の合戦の後、徳川幕府によって天下普請として琵琶湖湖畔にうかぶ彦根山に築かれました。琵琶湖に通じる水掘を周囲にめぐらせた同城の下屋敷は、地盤の軟弱な湿地帯を埋めたててつくられたこともあって「地震の間」の建設につながったのかもしれません。。
下屋敷御書院の奥にある「地震の間」は 今、大掛かりな改修工事で内部は見ることはできませんが、庭から見ても独特の構造が伺えます。

庭の一角に高さ2m近くまで積みあげられた石組。その高台の上に立つこけら葺き屋根のお茶室風の建物が「地震の間」。

地盤を固めるために積みあげられた石組は、地中はどの深さまで続いているかはわかりませんが、琵琶湖の干拓地に立つ下屋敷のことを考えると地下の固い地層から積みあげられているようです。

この建物の説明文にはこうあります。「人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており、柱が土台に限定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。さらには、建物全体を軽快な数寄屋造とし、屋根に軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしている。また、下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、基本的な耐震建築の様式を用いている。」
現在の地震に対する基準からすると「地震の間」は耐震建築というより免震建築なのかもしれません。
しかし、200年以上も前に建てられた「地震の間」は文政の近江地震(1819、M7.4)濃尾地震(1891、M8.0)をはじめ20回をこえる大地震にも被害の記録がないことから立派にその役割を果たしてきているのです。

江戸時代の「地震の間」から垣間見える地震対策の歴史。
クニモトは今、耐震金物「KS コボット」をはじめ、地震のゆれを吸収する「KS Uスパイダー」などを通して現在の木造住宅の地震対策に取組んでいます。

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